一緒に仕事をしたくない人と尋ねられたら
「リッチー・ブラックモア」と答えるだろう。
気に入らないと直ぐに解雇 クビ 脱退させられて
メンバーチェンジ。
そんな事を繰り返したディープ・パープルも巨大化し過ぎて
逆に彼が辞めるしか無くなった75年。
ロニー・ジエームス・デュオが在籍した「エルフ」を吸収する形で
「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」
一作目で早くもロニー以外を解雇し、ジェフ・ベック・グループの
後期メンバーとして活躍していたドラマー「コージー・パウエル」が加入。
79年からは、パープル時代に解雇された経験が有る
ロジャー・グローバーが音楽監督兼ベースとして加入。
この頃が全盛期であった。
ロニー・ジエームス・デュオの張りがあり、良く伸びるボーカルと
アルペジオを多用したテクニックを駆使したリッチーのギターに
ツインバスドラのコージーのドラム。
個人的に、「クリーム」のジンジャー・ベイカーのツインバスドラも
「ドタドタ」していて好きじゃないが、コージーは
マイケル・シェンカー・グループ ホワイトスネイク
イングヴェイ・マルムスティーン 変わったところでカール・パーマーの
代わりに「エマーソン・レイク・アンド・パウエル」等
多くのバンドの花型ドラマーとして交通事故で他界する98年まで
圧倒的な影響力と人気を誇った。
音楽的にはリッチーの音楽的バックボーンである
クラシカルな要素を取り入れ、キャッチーでメロディアスな
楽曲が多い。
パープルよりも一層リッチーのパーソナル的なバンドになったのは
言うまでも無い。
レインボーと言えば悲しい思い出として多くのファンが
記憶している、78年1月の2度目の来日公演の際
札幌中島スポーツセンターで行われたコンサートで
19歳の女子大生が傾れ込んできたファンの下敷きになって
死亡した事だろう。
写真は一回目の来日公演「東京体育館」での写真だが
この時は死者こそ出なかったものの、興奮したファンがアリーナから
ステージ前方に傾れ込み、将棋倒しとなり、けが人が出た。
この時の警備体制の反省が全く生かされず、78年の事故でようやく
ロックコンサートの公演での警備のあり方が問われ
マスコミから厳しく追及され、批判を浴びる形となった。
なお、最初の来日の際、リッチーは愛用のギターを30本
持って来ており、「ミュージック・ライフ」のインタビューで
「ステージで壊すギターは安物ですか?」の問いに
「日本に持ってきたの30本は全て愛用のギターだ。
壊すのも愛用のギター」と答えている。
今、改めて聞くと、後の「ヨーロッパ」なんか
「レインボー」の焼き直しみたいに感じるし、
80年代の第三世代のハードロック・ヘヴィメタル
特に日本のバンドに多くの影響を与えた事が解り
ニヤニヤする曲が多い。
結局、リッチーが長年音楽的パートナーとして
離れないのは奥さんで元モデルのキャンディス・ナイトだけなのだから
リッチーもやっぱり男なんだな。
二代目ボーカリスト「グラハム・ボネット」の短髪を終始気に入らなかった
リッチーがボネットの頭をギターで殴って解雇した話しは有名。
三代目ボーカリストは元教師のジョー・リン・ターナー。
彼の作る文学的な高度な詩は低迷していた
アメリカ市場での人気に大いに貢献した。
「リッチー・ブラックモア」と答えるだろう。
気に入らないと直ぐに解雇 クビ 脱退させられて
メンバーチェンジ。
そんな事を繰り返したディープ・パープルも巨大化し過ぎて
逆に彼が辞めるしか無くなった75年。
ロニー・ジエームス・デュオが在籍した「エルフ」を吸収する形で
「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」
一作目で早くもロニー以外を解雇し、ジェフ・ベック・グループの
後期メンバーとして活躍していたドラマー「コージー・パウエル」が加入。
79年からは、パープル時代に解雇された経験が有る
ロジャー・グローバーが音楽監督兼ベースとして加入。
この頃が全盛期であった。
ロニー・ジエームス・デュオの張りがあり、良く伸びるボーカルと
アルペジオを多用したテクニックを駆使したリッチーのギターに
ツインバスドラのコージーのドラム。
個人的に、「クリーム」のジンジャー・ベイカーのツインバスドラも
「ドタドタ」していて好きじゃないが、コージーは
マイケル・シェンカー・グループ ホワイトスネイク
イングヴェイ・マルムスティーン 変わったところでカール・パーマーの
代わりに「エマーソン・レイク・アンド・パウエル」等
多くのバンドの花型ドラマーとして交通事故で他界する98年まで
圧倒的な影響力と人気を誇った。
音楽的にはリッチーの音楽的バックボーンである
クラシカルな要素を取り入れ、キャッチーでメロディアスな
楽曲が多い。
パープルよりも一層リッチーのパーソナル的なバンドになったのは
言うまでも無い。
レインボーと言えば悲しい思い出として多くのファンが
記憶している、78年1月の2度目の来日公演の際
札幌中島スポーツセンターで行われたコンサートで
19歳の女子大生が傾れ込んできたファンの下敷きになって
死亡した事だろう。
写真は一回目の来日公演「東京体育館」での写真だが
この時は死者こそ出なかったものの、興奮したファンがアリーナから
ステージ前方に傾れ込み、将棋倒しとなり、けが人が出た。
この時の警備体制の反省が全く生かされず、78年の事故でようやく
ロックコンサートの公演での警備のあり方が問われ
マスコミから厳しく追及され、批判を浴びる形となった。
なお、最初の来日の際、リッチーは愛用のギターを30本
持って来ており、「ミュージック・ライフ」のインタビューで
「ステージで壊すギターは安物ですか?」の問いに
「日本に持ってきたの30本は全て愛用のギターだ。
壊すのも愛用のギター」と答えている。
今、改めて聞くと、後の「ヨーロッパ」なんか
「レインボー」の焼き直しみたいに感じるし、
80年代の第三世代のハードロック・ヘヴィメタル
特に日本のバンドに多くの影響を与えた事が解り
ニヤニヤする曲が多い。
結局、リッチーが長年音楽的パートナーとして
離れないのは奥さんで元モデルのキャンディス・ナイトだけなのだから
リッチーもやっぱり男なんだな。
二代目ボーカリスト「グラハム・ボネット」の短髪を終始気に入らなかった
リッチーがボネットの頭をギターで殴って解雇した話しは有名。
三代目ボーカリストは元教師のジョー・リン・ターナー。
彼の作る文学的な高度な詩は低迷していた
アメリカ市場での人気に大いに貢献した。