昭和30年代~50年代にかけて
多大なヒットソングを世に送った、作曲家 故・いずみたく。
彼はまた大のラーメンマニアでもあった。
「一日に3食ラーメンを食べて、一ヶ月も続けても飽きる事は無い。
全国をラーメンを食べ歩きながら周れたらこれほど素敵な事は無い」
永六輔 デューク・エイセスと全国を旅して作り上げた
「にほんのうた」このバイタリティーの源が
もしかしたら「全国のラーメンを食べ歩きたい」も有ったとしたら
これは面白い。
北海道のジャガイモ とうきび 蟹の歌はあったけれど
ラーメンの歌は無かった。
「上等な五目、肉そば 高級な中華は駄目
小さな店 汚い店 屋台の様なラーメン屋が最高だ」
そんな氏が生前書き残した著書「新・ドレミファ交友録」{絶版 出版社倒産}
交友のあった様々人たちとのエピソードが網羅されているが
大好きなラーメンの事も詳しく書かれている。
「札幌のラーメン 仙台のラーメン 横浜のラーメン 鹿児島のラーメン
そして、東京のラーメン 全国ではこの5つの都市が比較的美味しい」
残念、まだ新潟はこの時代、ラーメン大国じゃ無かったんだ。
その中で鹿児島のユニークなラーメン屋さんの記述が有るので
紹介したい。ラーメン好きには唸る話しが満載だ。
「いずみさん うちのスープはね、トリや豚の骨が
ボロボロになるまで一週間煮つづけてね、そして、その骨を
手で砕いて作るんですよ」
「フーン」
「油や肉は酸性でしょ。骨はアルカリ性。これが中和して
体にもいいし、美味しんですよ」
「フーン」
なんとも、科学の講義を聞いているようである。
そこの親父は一片の骨を取りだして、ボクに実験させた。
骨はボロボロと崩れ、拳の上にお団子のようになった。
「そのまま手を洗ってごらんなさい。石鹸と同じアルカリ性だから
手が綺麗になりますよ」
手を洗ってみると、なるほど、ヌルヌルもベタベタもしないで
石鹸のように綺麗に洗えた。
「ウチには辛いスープと甘いスープの2種類が有って
好みに応じられるし、スープのかけ方がまた難しい」
「フーン」
「スープを沸騰させずに、火を弱めて、グラグラ煮ておいて
油分を少なくシャモジでサッとすくう。これがコツなんです」
「フーン」
そして能書き通りに、ソバをドンブリに入れ、キャベツとチャーシューを刻んだものを
その上に載せ、ボクの目の前でスープを入れてくれた。
この店は、客の前にドンブリを置いて、そして、スープを入れてくれる。
とてもうまい。
「200円頂きます」
「え!!」
ただのラーメンが昭和35年頃に200円である。
{管理人加筆 昭和30年代後半 週刊誌30円 ラーメン50円が相場}
日本中で一番高いラーメンだったのではないか???
でも、鹿児島人たちは、みんなこのラーメンを愛していて
何時もお客さんでいっぱいだった。
なんでもここのご主人は台湾出身で、日本に帰化したかったのに
帰化できず、強制的に送還されそうになったのを
市民が協力して助けたと言う話しを聞いた。
次の機会に、再び鹿児島でこの店に寄った。
「今日はあまりお腹が空いていないのでソバは少なくしてよ」
「ハイ!」
食べ終わって店を出る時、ビックリした。
「250円です」
なんと一杯 250円である。
「いずみさん、ウチはスープで商売しているんです。
ソバを少なくしても10円も安くならないが、
ソバを少なくするとそれだけスープが多くなりますからね。
ウチのスープはそれだけでも価値が有りますよ」
いやはや、なんとも大した自信である。
この位の立派な姿勢で商売している人も少ないのではないか?
ソバを少なくすれば、それだけスープが余計にはいるという
物理的論理にホクはグーの音も出なかった。
それから、僕は鹿児島に行くと、必ずこの店に寄る事にしている。
終
この本が出版されたのが平成2年の2月。氏が他界したのが同年の5月。
そうなるとこのお店も昭和の終わりから平成当初までは
確実に存在していたと思われる。
現在の状況は解らないが、鹿児島の方で詳細の解る方が要らしたら
ご一報いただければ幸いです。
ラーメンマニア いずみたくを色んな意味で唸らせた究極の一杯。
この記事を読んで「食べたい」と思われた方も多いのでは・・・・・
昔、食堂でラーメンを出前で頼むと同じように玄関先に
麺の入った丼にポットに入ったスープを入れてくれたのが懐かしい。