昭和の一時代を築いた「ハナ肇とクレイジーキャッツ」の
ピアニストだった『桜井センリ』さんが亡くなった。
一人で亡くなっていたと言う事で「孤独死」という
見出しが大きく書かれていて、生前の大活躍と比例して
とても悲しい。誰にも看取られず、一人で亡くなるのが孤独死なのか?
本人が「誰の世話にもなりたくない」そういう意思が有る場合だって
考えられる。あれだけ一世を風靡した人が他人に
見せたくない一面を見られるのはプライドが許さない事もあるだろう。
一概になんでも「孤独死」という見出しは
半ばマスコミが興味を惹かせるために付ける大袈裟な
見出しに思えて、正直辞めてほしいと思う。
桜井センリさんが亡くなって、真っ先に思い出したのは
クレイジーのリーダー『ハナ肇』さんの事だった。
クレイジーには『石橋エータロー』と言う人がピアニストとして
在籍していたが、結核が良くならず、昭和35年から1年間
入院するため一時脱退する事になった。
因みに、石橋さんの母親は「ブリジストン財閥」の娘である。
鳩山さんのお母さんの姉妹かな?
その際に代役として加入したのが桜井さんだった。
桜井は石橋の大学での先輩であり、業界では
「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」のメンバーとして
後にクレイジーの同僚になる「植木等」「谷啓」と即に同僚で
腕をあげたピアニストとして一目を置かれていた。
日本コマーシャルソングの生みの親「三木鶏郎」の冗談工房に加入し、左とん平
なべおさみ等の後輩を育てている。
植木等の推薦でクレイジーに加入。順調にメンバーとして活躍していたが
昭和36年に石橋が復帰する事となったが、
メンバーのバランス感、特に一台のピアノにピアニストが
二人も居る事に違和感を感じた他のメンバーから
「桜井には悪いが 脱退してもらうのがバンドの為」と言う意見に
リーダーのハナは「縁あってメンバーになってもらい 助けてもらったのに
用がすんだら ハイ さよならなんて言えないだろう
桜井はメンバーとしてこれからも残す いいな」と他のメンバーを
説得させたと言う。
悪がる桜井にハナは一言「お前が辞める事は無い 残れ」と言った。
後に石橋と桜井のピアノ連弾はクレイジーのギャグ一つの見せ場になった。
長い譜面を使ったコントが有ったと思う。
また桜井は「キンチョール」CMに「センリ婆さん」として登場
「頼りにしているわ ルーチョンキ」
この言葉は流行語にもなり、単独でも人気者となった。
昭和46年に石橋が料理関係の仕事に従事したいため
クレイジーを脱退。桜井は他のクレイジーのメンバー同様
俳優としても活躍し、味のある名脇役として印象に残る
演技を披露した。
ハナ肇が亡くなった時、桜井はハナに対しての恩義を
レポーターに話し、隣に居た植木も「ああいうところが
ハナの人としての魅力 一台のピアノにピアニストが
二人なんて考えられなかった。そしたらそれをネタに
連弾させてコントにして 凄いなと思ったね」と語っていた。
永六輔氏の本に書かれていたが、有るパーティーでの事
来賓が挨拶しているのに、会場の人たちは話しに夢中になり
ざわざわした会場だったと言う。
隣のハナの顔つきが怪しくなり「来るぞ」と思った瞬間
ハナが大声で「お前たち 人が話しているのに聴かないとは
どういう事だ そんな事だと子供にも笑われるぞ」と一喝。
会場はシーンと静まり返ったと言う。
永さんは「とにかく短気な人だったが人情味に溢れる人だった
クレージーには青島幸男がいたからそんなに多くは仕事を
一緒にしなかったけれど交友は続いた」と述べている。
クレイジーと言えば、弟分に「ドリフターズ」が居る訳で
ドリフのメンバーの芸名の名付け親もハナさんだった。
分裂していたドリフがもう一度一緒にやろうと思ったのが
ハナ肇の死だっと言うのが興味深い。
二人のリーダーとしての資質が 両グループのメンバーの
明暗を分けた事が少なからずあったのは
いかりやさんが生前からもドリフのメンバーが批判的な事を話す時点で
在ったように思う。
人の上に立つと言う事は本当に度量があり
厳しく 優しく 常に思いやりの心
人の心を読み 開かせる そう言う人以外はリーダーに
なれないし なって欲しくない。
12月 新しく日本の政治のリーダーになるのは誰なのか?
日本丸という大きな船に一億人の乗客が乗っています。
舵の切り方一つでスムーズに航海する事も、転覆・沈没するのも
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