どうです 二人とも「人懐こい」良い顔してますよね。
「味気ない」「素っ気ない」という言葉が有る。
どちらも人間に当てはめられる言葉だと思う。
つまり「つまらない人」ということだろうか?
逆に非常に「人間臭い」という人もいる。
どういう人の事を言うのだろうか?
そんな事を考えていたら、該当する方が相次いで亡くなられた。
「中村勘三郎 (18代目)」
十七世中村勘三郎の長男として4歳から舞台に上がり
三木のり平とのラジオ番組を持ち、幼少の頃から将来を嘱望された。
しかし彼は伝統を重んじる歌舞伎界に置いて「異端児」とされ
歌舞伎の伝統とともに、より多くの歌舞伎ファンを取り入れる為
外部の新進気鋭の作家と組み
歌舞伎の伝統に風穴を開け、見事に世界まで歌舞伎を風通し良く
させる事に成功した。
常に多くの友人に囲まれ 遊びも本気だったが
人知れずところで努力し、その勇気と根の据わった芸への情熱は
彼一人しか解らない重圧との戦いであったのは容易に想像がつくが
立川談志にも通じる「天才」だったのも間違いではない。
現に二人はとても仲が良かった。
歌舞伎を愛し 芸を愛し 酒を愛し 女性を愛し
現在、週刊誌で華麗なる勘三郎さんの女性遍歴が記事になっているけれど
彼に言い寄られて断る女性なんか居るのかなという位でしょ。
奥さんも大変だったと思うけれど、「勘三郎の妻は生涯私です」と
今は誇りに思い、多くの女性に愛された夫「波野哲明」を敬愛していると思う。
「小沢昭一」
小沢さんの「小沢昭一の小沢昭一的こころ」が大好きで良く聞いていた。
サラリーマンの宮坂さんに悲喜こもごもな思い入れを感じた
お父さんも多いと思う。
一番印象に残っているのが、週戦後の食糧難。
おにぎりを持って歩いていると、「パンスケ」と呼ばれる
売春婦に「そのおにぎり 私にくれたら体あげるよ」と言われた
内容の放送であった。
海軍兵学校で学ぶが終戦を迎え、父親が松竹映画の撮影所がある
蒲田で店を開く事になり、ラジオでもその頃の話が良く話題になったが
次第に演劇の方に興味が湧く。
俳優座付属俳優養成所に入り、芝居の勉強をしている時
早稲田大学の同期「今村昌平」監督の誘いで日活に入社。
そして良く話題に上った「川島雄三」監督と出会う。
石原裕次郎 フランキー堺と共演した映画『幕末太陽傳』に出演。
この頃演技に開眼する。
個性的でしぶとく生きる脇役を見事にこなす演技。
時にはスタントマンなしで危険な撮影をし、監督に誉められたエピソードも
良く話されていた。
しかし演技よりも、大衆芸能への興味が強くなり
全国各地からの大衆芸能史 チンドン屋などを
訪ね歩いて、『私は河原乞食・考』を発刊。
ストリップ劇場 大衆演劇の文化伝統を守る啓蒙活動に
力を注いだ。
一貫して名も知らぬ地方の大衆芸能の俳優の仕事を通して
これまでの日本の伝統芸能を深く掘り下げる活動は
小沢さんだけにしか到達できないライフワークであった。
一度、永六輔氏に「絶縁状」を書いて渡し、しばらく勝手に縁を
切った事が有り、永さんはチンプンカンプンだったが、
小沢さんは常に周りの人間に永さんの態度を訪ねたり
そういうお茶目な子供心を常に持っている人だった。
独特の味のある歌 ハーモニカの音色の根底には
「戦争絶対反対」の強いメッセージが込められている。
2月に行なわれたら永さんとデューク・エイセスのコンサートで
永さんが新年に小沢さんと飲んで、先輩の小沢さんが呼んでくれた
タクシーの乗車を拒むものの、小沢さんにドアを開けられ
「どうぞ」と言われ、恐縮して載ったものの、そのタクシーが
事故で横転しニュースになり、翌日電話で
「そのタクシーって僕が呼んだタクシーじゃ無いですよね」と
笑って話されていた永さんが「小沢昭一的こころ」の追悼番組に
登場します。
小沢さんと言ったら、井上ひさし演出・脚本
主演 小沢昭一 音楽 デューク・エイセスで
舞台「「芭蕉通夜船」をやる計画を小沢さんが練っていたのに
井上さんに話したら「いいですね それなら本を書きなおす」と言ったので
その話は中止になったことですね。残念。
お二人の御冥福をお祈りいたします。