先日、テレビで熱唱している尾藤イサオさんを見て嫁が
「この人 良い年の取り方しているね」と言っていた。同感である。
尾藤イサオ 昭和18年11月 芸人の3代目松柳亭鶴枝と
同じく芸人の母の間に誕生した。
父親の血を引くあって『鏡味鉄太郎』として昭和28年に10歳でデビュー。
将来は両親と同じ芸人の道を進んでいくであろうと期待も高かったが
ラジオからふと聞こえて来た「エルヴィス・プレスリー』の歌に衝撃を受け
歌手としての道を進む事になる。
当初は人気絶頂の「水原弘」のバンドホーイ兼前座歌手として
活動していたが、渡辺プロと提携していた「大橋プロ」の
「ブルー・コメッツ」の専属ボーカル「鹿内孝」が独立したのを期に
ボーカリストとして迎え入れられた。
後のGSブームの頃の「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」時代と違い
このように大所帯であった。
一番左が尾藤で他のメンバーも既に揃っていた。
この頃の活動は「日劇ウェスタン・カーニバル」やジャズ喫茶がメイン。
ジャズ喫茶では渡辺プロの「寺内タケシとブルージーンズ」に
ボーカルは「内田裕也」と活動する事が多かった。
尾藤曰く「この頃の裕也さんは 歌を聴かないで騒いでる
お客にシンバル投げつけて顔怪我させたり お客との喧嘩は
日常茶飯事。裕也さんの投げたマイクが運悪く僕の顔に当たり
前歯が3本折れたり 裕也さんとはいろいろありました」と語っている。
彼に転機が訪れたのは昭和40年。
打ち合わせに来ていた東芝音楽工業の会議室の机の上に
出来あがったばかりの英国のビートグループ「アニマルズ」の
「悲しき願い」のテストプレスが置いてあった。
何気なく聴いてみると、「エリック・バードン」の激しい
ボーカルと「アラン・プライス」のオルガン。
尾藤は一発で気に入り「この歌を歌いたい」とプロデューサーに願い出た。
「網走番外地」の作詞をした「タカオ・カンベ」の日本語詩
♪誰のせいでもありゃしない みんなオイラが悪いのさ♪の歌詞と
尾藤の熱唱で大ヒット。一躍人気歌手の仲間入り。
同じ頃、寺内タケシとブルージーンズ 内田裕也
そしてブルー・コメッツをパックにした、プレGS期の名盤
「サーフィン・ホッドロット」「レッツ・ゴー・モンキー」等の
大傑作も発表。裕也とのデュエットやソロで「ダイナマイト」
「ワン・ナイト」等 名曲名演がびっしり刻まれている。
昭和41年に来日したビートルズの前座は全て、渡辺プロ所属が
出演する事になっていたので、彼もまたブルー・コメッツを従え
裕也と寺内が渡辺プロから独立直後のブルー・ジーンズと合同演奏、
「ダイナマイト」「悲しき願い」等を歌った。
裕也と尾藤は出番が終わると、初日こそ武道館の2階の客席でビートルズを聴いたが
残りの4回は、ビートルズ舞台前、警察と関係者しか入れなかった
アリーナでパイプ椅子に座って鑑賞した。
「ビートルズも嫌いじゃないんですが、
やっぱり僕の世代はプレスリーなんですよ」
この時、二人の音楽が新たな道の二本に別れた。
ビートルズ来日以降、所謂グループ・サウンズブームが
降ってわいたかの如く熱狂を持って迎えられた。
内田裕也は京都の「ファニーズ」をスカウト。
自らの手でスターに育て上げる夢を彼らに託し、
彼のアパートで共同生活をするものの、渡辺プロが
半ば強引に引き取り「ザ・タイガース」として売り出し、最高の人気を得た。
その後は「フラワーズ」の一員として活躍。
「フラワー・トラベリン・バンド」のプロデュース、
また「キャロル」を発掘し、大親友の「ミッキー・カーチス」と
争奪戦を繰り広げたり、シンカーとしても
プロデューサーとしてもバンドと言う形体にこだわった。
一方の尾藤は、ブルー・コメッツがビートルズの前座でも歌った
「青い瞳」を単独で日本コロムビアから発売し、これも大ヒット
紅白出場を果たす一方、彼のシンガーとしての人気も急速に下降して
不遇の数年を送る事になる。
大橋プロから「ブルー・コメッツの一員になれ」との命令を無視
「それだけはプライドが許さなかった」と大橋プロからも独立する事になる。
彼を救った二人の音楽家
出すレコートもサッパリ売れず、仕事も激減。
一時はGSの出演するライヴハウスでゲストとして
ゴールデン・カップスをパックに歌ったりしていたが
「シンガーはソロ+バックバンド」人気のGSをパックに
歌う事は尾藤にとっては屈辱そのものであった。
そんな中、有る一人の作曲家が譜面を持って尾藤の前に現れた。
作曲家『八木正生』である。
彼は戦後の日本モダンジャズの草分け的存在のピアニストで
この頃は作曲家として多数の東映のヤクザ映画音楽 CMソングとして
「ネスカフェ」の♪ダバダ~♪ その数年後は
デューク・エイセスの音楽監督として、後にサザンの桑田氏にも多大な
影響を与えた人であった。
「今度、フジテレビで漫画『あしたのジョー』の主題歌を
作曲したんだけれど、この歌を歌えるのは君しかいないと思ってね」
作詞はあの寺山修二であった。
勿論「歌わせてください」と願い出た。
レコーディング 寺山・八木が見守る中、尾藤はあろうことか
歌詞の一節を忘れてしまった。
♪ルルル ルルルル ルルル ル ルルルル 明日はきっと何かある ♪
テイク1を歌い終わると寺山と八木に謝った。
とっさにルルルと歌ったてみたが、尾藤にとっては大失敗である。
取り直しの準備に入ろうとしたところ、寺山から
「この ルルル いいね これで行こう」とOKが出た。
テレビの人気も相まってレコードは大ヒット。
「力石徹」の葬式にも寺山の願いで彼も出席する事になり、
実際のリングでプロボクサー対決し、相手を叩きのめした後
あのイントロが流れ、尾藤が歌うと言う設定だったが
いざ、本番となったら、相手のボクサーに火がついて
尾藤はKOされ気絶しリングに沈んでしまったという。
もう一人の作曲家は「いずみたく」である。
いずみは尾藤の俳優として「見どころのある奴」と捉えていて
何度も自信の事務所「オール・スタッフ」に誘ったが
尾藤は断っていた。しかし、大橋プロから独立した際
いずみに再び声をかけてもらい「随分遠廻りいたしましたが
今日から宜しくお願いいたします」とヤクザの様な仁義を
きって、いずみに挨拶したと言う。
いずみは昭和39年、尾藤を坂本九主演の「夜明けの歌」というミュージカルに起用してから
昭和41年に「結末のない童話」43年に「聖スブちゃん」と
一年置きに彼のミュージカルに起用した。
とろい スロー 科白覚えが悪く イントネーションも悪い
すこぶる下手な演技だった。
共演の西村晃も「たくさん あの子大丈夫?」と心配を
漏らしていたが、二人の心配は稽古を重ねるにつれ
「あの子 なかなかやるね」に代わっていたった。
とにかく、歌がさっぱりの尾藤を役者としての秘めた可能性を
いずみは最大限引き出してやろうと、いずみは尾藤に
厳しく指導した。
昭和48年、市川崑が監督した「股旅」で
萩原健一、小倉一郎と共演。
ヤクザの世界で成りあがろうともがく3人の若者の一人を
見事に演じ、俳優としての評価も得る。
また、いずみが「海外で『悲しき願い』のディスコ調のアレンジが
売れている、君も吹き込むんだ」とレコーディングした
「悲しき願い 78」が久しぶりに大ヒットした。
昭和55年、東宝で上演されたブロードウェイ・ミュージカルで
菊田一夫賞を受賞。
受賞パーティーでいずみと尾藤は列席の俳優 女優達に
挨拶に廻った。森繁久弥等 業界関係者か多数居たが
愛想よく御世辞を言う人も居たが、殆どの人は尾藤を無視した。
「歌手風情が、タレント風情が賞??
われわれ舞台人はお前さん方と違うよ」と言うのが本音だった。
その晩、尾藤は「畜生!!いつかあいつらを見返してやる」と
いずみの前で悔し涙を流し、泣いたと言う。
その後は文字通り、第一線で歌に芝居にドラマに映画、日本を代表する
芸能人として大活躍している。
夏に放送された「NHKおもいでのメロディ」では
亡くなった大親友、『尾崎紀世彦』の「また逢う日まで」を
演奏と同期しない位、陶酔し大熱唱。
歌い終えた後は動けなくなり、スタッフに抱きかかえられて
舞台を後にしたと言う。
尾崎さんの分まで、いつまでも若々しく 良い年の取り方の
見本を私達に教え続けてほしい 尾藤さん 頑張ってください。