深作欣二監督と言う人は本当に何事にも徹底して
溢れる情熱 熱情で衰退し始めた日本映画に風穴を開けたと思う。
映画では深夜から早朝までの撮影が当たり前で
「深作組」ならぬ「深夜組」や「深酒組」と称され
終了後はそのまま俳優と宴会に傾れ込む。
寝不足と疲労、飲み過ぎで目を真っ赤にした俳優達を前に
「よし その真っ赤な眼だ ギラギラし眼で親分を殺した
チンピラ 殺っちゃれ!」と直ぐ様撮影開始である。
深作欣二は昭和5年 茨城県水戸市出身。
高倉健と同じ年である。
日本大学藝術学部卒業後、昭和28年に「東映」に入社。
東映が新たに設立した「ニュー東映」「第二東映」での量産体制により
昭和36年『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。
この映画の主役が映画初主演となり、後に盟友となる千葉真一。
新東宝から東映に移籍してきた、石井輝男監督に触発され
従来のバタ臭い東映ギャング映画に、鶴田浩二、高倉健を
起用し、スピード感とテンポある演出で、評論家には
評判が良かったが、ヒット作には無縁で、東映内では
早くも「お荷物監督」と言わる様になる。
昭和37年、大新聞のトップ家として活躍し、
進駐軍内部の汚職を暴露する取材中にリンチされて、
その後、業界新聞の記者に成り下がった黒木と彼をリンチした
元進駐軍の諜報部、高山の攻防を描く異色作「誇り高き挑戦」を
発表します。
黒木役に鶴田浩二。高山に丹波哲郎。
黒木は顔のリンチ傷と、巨大な権力によって葬られようと
された自身の心の傷を隠すため、終始サングラスをかけています。
それに対し、鶴田は深作に「俳優は目で演技するのに
何故それを隠すのか?納得が出来ない」と新人監督の深作に
抗議します。深作は相手がどんな大物でも自分の
演技スタイルには徹底して拘り、妥協しない男。
自らその演技の必然性を鶴田に訴えかけました。
最後のシーン。国会議事堂の前で鶴田が初めて
サングラスを外すシーンを見れば納得できる演出です。
昭和39年に大島渚等の松竹ヌーベルバーグに影響を受けた
「狼と豚と人間」を発表。
スラム街で育った3兄弟。狼の長男、三国連太郎は
ヤクザの幹部として羽ぶりが良く、二男の豚、高倉健は
その兄の資金を仲間と強奪する計画を立て、人間の三男
北大路欣也は最後まで母親の面倒を見ていましたが・・・・・
その陰湿な内容で成人指定。
「誇り高き挑戦」同様、興行的には大失敗でした。
唯一、この映画を高く評価したのが藤純子。
純子は東映の任侠映画プロデューサーとして飛ぶ鳥落とす勢いだった
父親の俊藤浩滋に深作を推薦します。
昭和40年の正月映画「顔役」を監督するも
脚本の笠原和夫と揉め、女優の中原早苗に入れ込むあまり
映画に身が入らず、その後病気となって監督降板。
笠原はこの時「絶対、二度と深作とは組まない」と激怒し
執筆途中でやはり降板しました。
後の「仁義なき戦い」で二人が奇跡のタッグを組むのも
やはり縁と言うか宿命でしょうか?
その後もヒット作に恵まれず、フリーとなり
松竹に招かれて、松方弘樹達のチンピラの生活を
青春群像と入り混ぜた演出で表現した「恐喝こそわが人生」を
同じ年の昭和43年、三島由紀夫の戯曲「黒蜥蜴」を
丸山明宏(現:美輪明宏)の主演で監督。
その後、俊藤浩滋に「そろそろ東映に戻ってこい 俺が
ヤクザ映画の作り方を教えてやる」の言葉に東映に復帰。
昭和44年、山口組の代理戦争をモチーフに
鶴田浩二の主演で制作した「日本暴力団・組長」が
従来のギャング映画とは違う、後の実録映画風の作風
特にカメラマンの仲沢半次郎の手持ちカメラの
画面が横に縦に揺れる斬新なカメラワークは
深作に多大な影響を与え、映画も初めて3塁ヒットを記録。
鶴田は深作の自宅に電話し「気分が良い これから一緒に飲もう」と
誘ってきたと言います。
この映画で菅原文太 安藤昇 若山富三郎と初めて仕事をします。
しかし、深作は東映任侠映画 ヤクザ映画を
「綺麗事に過ぎない偽物の世界」と評し、東映で仕事を
する限り、避けて通れない「ヤクザ映画」の描き方に苦心します。
丁度、東映も菅原文太を、鶴田、高倉に続くエースとして
一本立ちさせようとしますが、決定的な作品に恵まれず
伸び悩んでいました。
そんな時、深作はテレビで生中例していた連合赤軍の
「浅間山荘事件」の映像に衝撃を受けます。
その時深作は「映画の主人公は善じゃなくて良いんだ
悪でもなんでも 人間なら何でも良いんだ」と悟り
凶暴極まりない、女は犯して売り飛ばす 親分にドスを向ける
大組織に牙を剥く、鮮烈な菅原文太を主人公にした
「現代やくざ 人斬り与太 」「人斬り与太 狂犬三兄弟」を
昭和47年に公開しました。
どちらかの映画なのか忘れましたが、最後、菅原文太が
死ぬのが廃墟となった映画館で、深作が手掛けた
鶴田浩二主演の「博徒外人部隊」の鶴田・若山・安藤・渡瀬の
大きな立て看板の前と言うのが、私には
過去のヤクザ映画との決別宣言に思えてなりません。
その年に、「仁義なき戦い」の映画製作の話しが
具体化します。
紆余曲折を経て、俊藤浩滋は菅原文太の主演
監督に深作欣二、カメラマンに仲沢半次郎の
東映東京組を京都撮影所に迎えて制作する事を提案。
しかし、京都撮影所はこれに猛反発。
監督は京都の工藤栄一を推薦するものの、俊藤は
深作でなければ映画は制作しないの意向に、京都側は
せめてカメラだけは京都の人間での願いに
ベテラン、吉田貞次で撮影を了解。
初めて深作を京都に迎え入れて制作が開始されました。
京都側の職人の猛反発を予想していた俳優陣は
深作を気遣い、万全の態勢で撮影に臨めるよう手配をしていましたが
例のピラニア軍団の京都撮影所大部屋俳優が
深作の制作姿勢に猛反発。
その辺りの心温まる深作流の演出に、川谷拓三以下、
大部屋俳優が涙した話しは、以前ご紹介した通り。
テレビ時代劇「江戸を斬る」が高視聴率で
京都撮影所でも手厚くされていたと言われていた
西郷輝彦は「とんでもない あの頃の京都撮影所は
物凄く怖い雰囲気で、我々テレビ組は小さくなって
仕事をしていました。隣のスタジオで仁義なき戦いを
撮影していて、私も映画館で見て、物凄く興奮したのを覚えています。
後に、[柳生一族の陰謀」で深作監督から声をかけられた時は
嬉しかったけれど、挨拶に行ったら「君になんか期待してない」
みたいな顔されて、だから監督に気に入られるよう
無我夢中で演技して、次の「赤穂城断絶」にも呼んでもらえて
光栄に思いました。しかも、役どころが前より大きくなっていて」と語っている。
前述した通り、撮影は毎日不眠不休で深夜から朝まで
撮影された。
東映では、故・山城新吾・佐久間良子と同期の曽根晴美は
「仁義なき戦い 完結篇」において、踏切で、列車を通過待ちしている
天政会・松村保会長(北大路欣也)と江田省一副会長(山城新伍)の
襲撃に加勢するヤクザを演じた。
深作の監督デビュー作「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」で準・主役として
その後も多くの深作映画に曽根は出演しているが
「完結篇」では声がかからなかった。
曽根は「山城と欣也の2人を襲撃するのが大阪・尼崎と聞いてね。
僕は尼崎出身だから、やらせてくれと言ったんだよ。
踏み切りに狭まれたところで山城たちの車を襲撃するんだよ。
許可なんか取ってないから、2分くらいで電車が通過する。
サクさんは『電車を止めろ』なんて無茶なことを言い出すくらいだったよ。
どうしても立場は京都のほうが上。サクさんは東京から
親しい仲沢半次郎カメラマンを連れて行こうとしたけど、
向こうは受け入れてくれない。かといって、
京都のベテランのカメラや照明は、サクさん流の走り回って撮るような形には
これはできないと拒否したから」
京都側のカメラマン吉田に深作は手持ちカメラで走り回る様に
撮影してくれと頼んだが、吉田は拒否。
しかたなく、深作がカメラを担ぎ始め撮影を始めた。
これには吉田も唖然となった。
しかしその後は深作の熱意や制作姿勢に理解し始め
二人三脚で撮影を乗り切った。
深作監督の長男、深作健太は中学に入る頃、グレ始めた。
そんな時、たまたまレンタルビデオ屋で待望の
ビデオ化された「仁義なき戦い」を借りて絶句した。
「自分がグレようとしていた時、親父はもう何年も前に
こんなぶっ飛んだ映画作っていたんだな」
それから健太は父の他の作品はもとより、
評判の高い映画、舞台をむさぼるように見始めた。
その中の一つ、女優、荻野目慶子の出演する舞台に
健太は心を揺さぶられ、父親に「荻野目慶子という女優が
凄いから映画に起用すべきだ」と進言する。
その後、深作、健太、荻野目は三人でも食事する
仲になり、深作は映画『いつかギラギラする日』『忠臣蔵外伝 四谷怪談』に
起用した。その後の二人の関係は周知の事実。
深作を見舞った、東映のプロデューサー、日下部五朗に
深作はベット上で「世間には伏せていたけど前立腺ガンだという。
切ってしまったほうがラクなんだろうけど、
切ったら女を抱けなくなっちゃうんだよ」と笑って話したと言う。
生と死の狭間に置いて、男として愛する女を抱く事を
性を第一に生きる糧とした深作にある情報が入った。
健太は「父が挙動不審になって、おかしいからどうしたんだ」と
問い詰めると、「女が告白本を出すようで、その中で俺の
病状の事も書いてあるらしい。それだけは世間に知らせたくない」
健太は直ぐに出版予定の社長に面会を求め
原稿のゲラを見せるよう要求したが「お前 いい根性しているなと」
取り合ってくれなかった。
「親父の女関係の話しなんかどうでも良かった。
でも親父の癌の事を愛人から発表されるのだけは絶対許せなかった」
健太は深作に本が出版される前にマスコミに自身で
発表するよう願い、深作もこれを了承し
会見を開いて自らの口で病名を発表した。
命を削ってまで愛した女に、半ば裏切られる形となった
深作には「バトルロワイヤルⅡ」の制作が残っていたが
症状が悪化し、撮影開始間もなく、 2003年1月12日 72歳で
この世を去った。 2002年12月12日亡くなった
笠原の後を追うように・・・・・・
深作の妻で、健太の母である、女優の中原早苗は
度重なる深作の女性関係の報道にも動じず
最後まで夫婦として共に暮らし、深作の死後、表舞台に出ず
自宅で夫が過去に演出した映画を見ていたと言う。
「日本暴力団・組長って映画、あれに私も出演していて
安藤昇さんが私の夫役だったのね。久しぶりに
見たら安藤さんがかっこよくてね。個人的に
仁義なき戦いより好きな映画ですね」と
ヤクザ映画本の取材に応じた。
その後、2012年5月15日、心不全のため亡くなった。
いしだあゆみも葬儀の時「本当に温かくて大好きだった」と
語る様に、本気と本音で役者とぶつかり、そして
役者と語り合い、多くの俳優に愛された情熱の男
深作欣二。それを象徴するような事を
曽根が語っているので最後に記述して終わりにする。
「他の監督なら『やってられるか!』となるんだろうけど、
あの鶴田さんが、サクさん相手だと朝の4時まで黙って撮影につきあうんだよ。
俺たちにも『お前ら、サクの映画を勉強しろ』って早くから言ってたね」
終わり
溢れる情熱 熱情で衰退し始めた日本映画に風穴を開けたと思う。
映画では深夜から早朝までの撮影が当たり前で
「深作組」ならぬ「深夜組」や「深酒組」と称され
終了後はそのまま俳優と宴会に傾れ込む。
寝不足と疲労、飲み過ぎで目を真っ赤にした俳優達を前に
「よし その真っ赤な眼だ ギラギラし眼で親分を殺した
チンピラ 殺っちゃれ!」と直ぐ様撮影開始である。
深作欣二は昭和5年 茨城県水戸市出身。
高倉健と同じ年である。
日本大学藝術学部卒業後、昭和28年に「東映」に入社。
東映が新たに設立した「ニュー東映」「第二東映」での量産体制により
昭和36年『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。
この映画の主役が映画初主演となり、後に盟友となる千葉真一。
新東宝から東映に移籍してきた、石井輝男監督に触発され
従来のバタ臭い東映ギャング映画に、鶴田浩二、高倉健を
起用し、スピード感とテンポある演出で、評論家には
評判が良かったが、ヒット作には無縁で、東映内では
早くも「お荷物監督」と言わる様になる。
昭和37年、大新聞のトップ家として活躍し、
進駐軍内部の汚職を暴露する取材中にリンチされて、
その後、業界新聞の記者に成り下がった黒木と彼をリンチした
元進駐軍の諜報部、高山の攻防を描く異色作「誇り高き挑戦」を
発表します。
黒木役に鶴田浩二。高山に丹波哲郎。
黒木は顔のリンチ傷と、巨大な権力によって葬られようと
された自身の心の傷を隠すため、終始サングラスをかけています。
それに対し、鶴田は深作に「俳優は目で演技するのに
何故それを隠すのか?納得が出来ない」と新人監督の深作に
抗議します。深作は相手がどんな大物でも自分の
演技スタイルには徹底して拘り、妥協しない男。
自らその演技の必然性を鶴田に訴えかけました。
最後のシーン。国会議事堂の前で鶴田が初めて
サングラスを外すシーンを見れば納得できる演出です。
昭和39年に大島渚等の松竹ヌーベルバーグに影響を受けた
「狼と豚と人間」を発表。
スラム街で育った3兄弟。狼の長男、三国連太郎は
ヤクザの幹部として羽ぶりが良く、二男の豚、高倉健は
その兄の資金を仲間と強奪する計画を立て、人間の三男
北大路欣也は最後まで母親の面倒を見ていましたが・・・・・
その陰湿な内容で成人指定。
「誇り高き挑戦」同様、興行的には大失敗でした。
唯一、この映画を高く評価したのが藤純子。
純子は東映の任侠映画プロデューサーとして飛ぶ鳥落とす勢いだった
父親の俊藤浩滋に深作を推薦します。
昭和40年の正月映画「顔役」を監督するも
脚本の笠原和夫と揉め、女優の中原早苗に入れ込むあまり
映画に身が入らず、その後病気となって監督降板。
笠原はこの時「絶対、二度と深作とは組まない」と激怒し
執筆途中でやはり降板しました。
後の「仁義なき戦い」で二人が奇跡のタッグを組むのも
やはり縁と言うか宿命でしょうか?
その後もヒット作に恵まれず、フリーとなり
松竹に招かれて、松方弘樹達のチンピラの生活を
青春群像と入り混ぜた演出で表現した「恐喝こそわが人生」を
同じ年の昭和43年、三島由紀夫の戯曲「黒蜥蜴」を
丸山明宏(現:美輪明宏)の主演で監督。
その後、俊藤浩滋に「そろそろ東映に戻ってこい 俺が
ヤクザ映画の作り方を教えてやる」の言葉に東映に復帰。
昭和44年、山口組の代理戦争をモチーフに
鶴田浩二の主演で制作した「日本暴力団・組長」が
従来のギャング映画とは違う、後の実録映画風の作風
特にカメラマンの仲沢半次郎の手持ちカメラの
画面が横に縦に揺れる斬新なカメラワークは
深作に多大な影響を与え、映画も初めて3塁ヒットを記録。
鶴田は深作の自宅に電話し「気分が良い これから一緒に飲もう」と
誘ってきたと言います。
この映画で菅原文太 安藤昇 若山富三郎と初めて仕事をします。
しかし、深作は東映任侠映画 ヤクザ映画を
「綺麗事に過ぎない偽物の世界」と評し、東映で仕事を
する限り、避けて通れない「ヤクザ映画」の描き方に苦心します。
丁度、東映も菅原文太を、鶴田、高倉に続くエースとして
一本立ちさせようとしますが、決定的な作品に恵まれず
伸び悩んでいました。
そんな時、深作はテレビで生中例していた連合赤軍の
「浅間山荘事件」の映像に衝撃を受けます。
その時深作は「映画の主人公は善じゃなくて良いんだ
悪でもなんでも 人間なら何でも良いんだ」と悟り
凶暴極まりない、女は犯して売り飛ばす 親分にドスを向ける
大組織に牙を剥く、鮮烈な菅原文太を主人公にした
「現代やくざ 人斬り与太 」「人斬り与太 狂犬三兄弟」を
昭和47年に公開しました。
どちらかの映画なのか忘れましたが、最後、菅原文太が
死ぬのが廃墟となった映画館で、深作が手掛けた
鶴田浩二主演の「博徒外人部隊」の鶴田・若山・安藤・渡瀬の
大きな立て看板の前と言うのが、私には
過去のヤクザ映画との決別宣言に思えてなりません。
その年に、「仁義なき戦い」の映画製作の話しが
具体化します。
紆余曲折を経て、俊藤浩滋は菅原文太の主演
監督に深作欣二、カメラマンに仲沢半次郎の
東映東京組を京都撮影所に迎えて制作する事を提案。
しかし、京都撮影所はこれに猛反発。
監督は京都の工藤栄一を推薦するものの、俊藤は
深作でなければ映画は制作しないの意向に、京都側は
せめてカメラだけは京都の人間での願いに
ベテラン、吉田貞次で撮影を了解。
初めて深作を京都に迎え入れて制作が開始されました。
京都側の職人の猛反発を予想していた俳優陣は
深作を気遣い、万全の態勢で撮影に臨めるよう手配をしていましたが
例のピラニア軍団の京都撮影所大部屋俳優が
深作の制作姿勢に猛反発。
その辺りの心温まる深作流の演出に、川谷拓三以下、
大部屋俳優が涙した話しは、以前ご紹介した通り。
テレビ時代劇「江戸を斬る」が高視聴率で
京都撮影所でも手厚くされていたと言われていた
西郷輝彦は「とんでもない あの頃の京都撮影所は
物凄く怖い雰囲気で、我々テレビ組は小さくなって
仕事をしていました。隣のスタジオで仁義なき戦いを
撮影していて、私も映画館で見て、物凄く興奮したのを覚えています。
後に、[柳生一族の陰謀」で深作監督から声をかけられた時は
嬉しかったけれど、挨拶に行ったら「君になんか期待してない」
みたいな顔されて、だから監督に気に入られるよう
無我夢中で演技して、次の「赤穂城断絶」にも呼んでもらえて
光栄に思いました。しかも、役どころが前より大きくなっていて」と語っている。
前述した通り、撮影は毎日不眠不休で深夜から朝まで
撮影された。
東映では、故・山城新吾・佐久間良子と同期の曽根晴美は
「仁義なき戦い 完結篇」において、踏切で、列車を通過待ちしている
天政会・松村保会長(北大路欣也)と江田省一副会長(山城新伍)の
襲撃に加勢するヤクザを演じた。
深作の監督デビュー作「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」で準・主役として
その後も多くの深作映画に曽根は出演しているが
「完結篇」では声がかからなかった。
曽根は「山城と欣也の2人を襲撃するのが大阪・尼崎と聞いてね。
僕は尼崎出身だから、やらせてくれと言ったんだよ。
踏み切りに狭まれたところで山城たちの車を襲撃するんだよ。
許可なんか取ってないから、2分くらいで電車が通過する。
サクさんは『電車を止めろ』なんて無茶なことを言い出すくらいだったよ。
どうしても立場は京都のほうが上。サクさんは東京から
親しい仲沢半次郎カメラマンを連れて行こうとしたけど、
向こうは受け入れてくれない。かといって、
京都のベテランのカメラや照明は、サクさん流の走り回って撮るような形には
これはできないと拒否したから」
京都側のカメラマン吉田に深作は手持ちカメラで走り回る様に
撮影してくれと頼んだが、吉田は拒否。
しかたなく、深作がカメラを担ぎ始め撮影を始めた。
これには吉田も唖然となった。
しかしその後は深作の熱意や制作姿勢に理解し始め
二人三脚で撮影を乗り切った。
深作監督の長男、深作健太は中学に入る頃、グレ始めた。
そんな時、たまたまレンタルビデオ屋で待望の
ビデオ化された「仁義なき戦い」を借りて絶句した。
「自分がグレようとしていた時、親父はもう何年も前に
こんなぶっ飛んだ映画作っていたんだな」
それから健太は父の他の作品はもとより、
評判の高い映画、舞台をむさぼるように見始めた。
その中の一つ、女優、荻野目慶子の出演する舞台に
健太は心を揺さぶられ、父親に「荻野目慶子という女優が
凄いから映画に起用すべきだ」と進言する。
その後、深作、健太、荻野目は三人でも食事する
仲になり、深作は映画『いつかギラギラする日』『忠臣蔵外伝 四谷怪談』に
起用した。その後の二人の関係は周知の事実。
深作を見舞った、東映のプロデューサー、日下部五朗に
深作はベット上で「世間には伏せていたけど前立腺ガンだという。
切ってしまったほうがラクなんだろうけど、
切ったら女を抱けなくなっちゃうんだよ」と笑って話したと言う。
生と死の狭間に置いて、男として愛する女を抱く事を
性を第一に生きる糧とした深作にある情報が入った。
健太は「父が挙動不審になって、おかしいからどうしたんだ」と
問い詰めると、「女が告白本を出すようで、その中で俺の
病状の事も書いてあるらしい。それだけは世間に知らせたくない」
健太は直ぐに出版予定の社長に面会を求め
原稿のゲラを見せるよう要求したが「お前 いい根性しているなと」
取り合ってくれなかった。
「親父の女関係の話しなんかどうでも良かった。
でも親父の癌の事を愛人から発表されるのだけは絶対許せなかった」
健太は深作に本が出版される前にマスコミに自身で
発表するよう願い、深作もこれを了承し
会見を開いて自らの口で病名を発表した。
命を削ってまで愛した女に、半ば裏切られる形となった
深作には「バトルロワイヤルⅡ」の制作が残っていたが
症状が悪化し、撮影開始間もなく、 2003年1月12日 72歳で
この世を去った。 2002年12月12日亡くなった
笠原の後を追うように・・・・・・
深作の妻で、健太の母である、女優の中原早苗は
度重なる深作の女性関係の報道にも動じず
最後まで夫婦として共に暮らし、深作の死後、表舞台に出ず
自宅で夫が過去に演出した映画を見ていたと言う。
「日本暴力団・組長って映画、あれに私も出演していて
安藤昇さんが私の夫役だったのね。久しぶりに
見たら安藤さんがかっこよくてね。個人的に
仁義なき戦いより好きな映画ですね」と
ヤクザ映画本の取材に応じた。
その後、2012年5月15日、心不全のため亡くなった。
いしだあゆみも葬儀の時「本当に温かくて大好きだった」と
語る様に、本気と本音で役者とぶつかり、そして
役者と語り合い、多くの俳優に愛された情熱の男
深作欣二。それを象徴するような事を
曽根が語っているので最後に記述して終わりにする。
「他の監督なら『やってられるか!』となるんだろうけど、
あの鶴田さんが、サクさん相手だと朝の4時まで黙って撮影につきあうんだよ。
俺たちにも『お前ら、サクの映画を勉強しろ』って早くから言ってたね」
終わり